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Nago Mitill
無いものねだりなんだ、 僕らは。
今 ここに無いものばかり欲しくなって、 追ってしまう。
冷めた日常のなか、 本当に大切にすべきもの どこかへ見失っていく。
衣食住 足りていれば、 ヒトとして十分なはずなのに、
今や、 お腹が いっぱいでも、 僕らは幸福になれない。
ささやかな日常に鈍くなった心が、 満ち足りない寂しさで僕らを駆り立てる。
空しさを埋める糧を、 僕らに追い求めさせる。
無いものねだりなんだ、 僕らは。
ここに無いもの、 まだ手にしていないもの、 ありふれてないもの、 自分のものにすれば、
幸福になれるような、 そんな気がするんだ。
だから、 死が少なくなった この豊かな社会でヒトは、
むしろ 自分を殺したり、 他人を殺したり、 するのだろう。
死が ありふれた社会では、 生が望まれ、 大切にされるように。
いつから 僕らは、 幸福が どこか遠いところにあって、
ここには無いのだと、 そう思うようになったのだろう。
いつから 僕は、 心を満たす糧を むなしく どこかへ追い続ける、
無いものねだりの人間に、 なったんだろう。
どこかで 分かってるんだ。
何を手に入れても、 どこを探しても、
心を満たす手段など、 この世界のどこにも見つかりはしない。
僕は、 いつまでたっても幸福になんてなれない。
自分が幸福だと、 自分でそう思えない限り。
無いものねだりなんだ、 僕らは。
物に満たされた社会のなか、 本当に大切なもの どこかへ見失ってしまう。
幸福になるためのすべが、 初めから ここにあること、 忘れてしまっている。
幸福の定義は、 常に 自分の心に依存しているんだ。
僕の心を満たせるのは、 僕の心でしかない。
(2007年・筆)
「無いものねだり」、今はまだここに無いものを欲しがるというのは、人間の習性なのかもしれないのですけどね。より便利なもの、より新しいものを求めて、道具を開発したりするわけですから。
衣食住が不足している環境に生きる人は、十分な衣食住を欲します。で、衣食住が満たされると、幸福を感じるワケです。しかし、最初から衣食住が満たされた環境に生きる人は、衣食住が満たされているだけではナカナカ幸福を感じないかもしれないワケですね。
平和で快適な水準の生活が保証されている日本で、例えば、どうして若い子供が安易に自分を傷つけたり、他人を傷つけたりするのかな~と、時々思います。色々な理由があるでしょうが、思うに現在の日本社会では、人が「死」というものに接触する機会が、ほとんど無いような気がします。日常生活のなかで、動物ないし人の「死」に接することが、ほとんどありません。つまり、「平和に普通に生きていること」は、「当たり前に、ありふれていること」であって→「それほど貴重なものではない感じ」、となっているのかもしれません。「死」のほうが、「ありふれていない珍しいもの」、「特別なもの」のように思えるのかもしれません。
やっぱり、日々、死の危機に晒されている環境で生きている子供は、思春期であっても特に「自殺」を意識したりはしないのだと思うのですよ。
まあ、何にせよ、「幸福は、主観に依存する存在ではないか」というのは、しばしば思うことでして。
他人から見ると幸福そうにしか見えない、恵まれた環境に生きる人であっても、本人が「自分は不幸だ」と思っていれば、やっぱり、その人にとっては「人生は不幸」なんですね。一方で、他人の目から見ると厳しい環境で生きていている人であっても、自分の人生は幸福と思って、本人は幸せに生きている場合もある。
結局、本人の心の持ち様次第ということでしょうか。
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詩は思いついた時に書いてます。まったくもってノロノロなブログですが、週一更新を心がけております。のんびりご賞味下さい。